新紙幣の一番の話題となっている渋沢栄一。
その素晴らしい実績と比較して名前はそれほど知られていません。新渡戸稲造のようなものでしょうか?
そんな渋沢栄一は昔「あさが来た」にも登場していた人物としても知られ、「あさ」こと広岡浅子にも大きな影響を与えたと言われております。
あくまでもそれはドラマ上の話であり、史実ではどうだったのでしょうか?
今回はそんな広岡浅子との関係についても明らかにしていきましょう!
広岡浅子とは何者だったのか?
京阪電車・渡辺橋駅から徒歩約5分の大同生命では「あさが来た」のヒロインのモデル「広岡浅子」の波乱に満ちた生涯を紹介する“加島屋と広岡浅子”が開催中。(写真提供:大同生命)https://t.co/nBfiSRFqiD#あさが来た pic.twitter.com/NI3hHFKSQ9
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明治時代を代表する実業家として知られ、炭鉱から銀行、生命保険会社を設立し、そのバイタリティからしばしば狂人扱いされたことも。
しかし、夫の新五郎が死去後は隠居し、女性教育に力を入れ始め、日本女子大学の設立にも大きく貢献しています。
71歳で亡くなるまで女性教育には力を入れ、当時若かった市川房枝や「花子とアン」の主人公のモデルとなった村岡花子らも彼女の門下生であると言われています。
亡くなる時には「私に遺言などありません。日常から言っていることがすべて遺言です」と言い残したとか。
豪快でエネルギッシュな生涯だったのでしょうね。
なお、大同生命は今でも現存しており、広岡浅子のモデルとなったあさの役を務めた波瑠さんは、大同生命のCMにも出演しています!
広岡浅子と渋沢栄一の関係性は?
基本的にドラマでは脚色などがあるため、本当に関係性があったのか疑問視されることもあります。
しかし、広岡浅子と渋沢栄一は生前から大いに交流があったようですね。
これはあさが来たのドラマの原作となった「小説 土佐堀川」にも明確に記載がされているほどです。
浅子は銀行設立にあたり渋沢栄一から様々なことを聞き、そこから学んだと言われています。
中でも「銀行は何よりも信用が大事だ」と説いたと言われ、これに大きく感銘を受けたとか。
み●ほ銀行さんは是非ともこの言葉を何度も何度もリフレインしていただきたいものです。
仮にも渋沢栄一が設立した第一銀行の血筋を継いでいるでしょうに。
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なお、この交流は銀行設立後も継続したようで、のちに日本女子大学を設立する際や恐慌に入る手前に渋沢へと浅子が相談したという史実もあるとのことです。
まとめ
いかがでしょうか?
今回は広岡浅子と渋沢栄一の関係性についてまとめました。
こうしてみますと、五代さまより渋沢栄一のほうが交流があったという説もあり、歴史というものがいかに興味深いものであるかを教えてくれますね。
もしかしますと、あさが来たの再放送でこれらを見ることが出来るかもしれませんね!