大変です。新紙幣が発行されるようです。
皆さんがお金の中で一番好きなものは何ですか?
私は一万円札です。最近久しく銀行から出していないような気がしないでもありません。
そんな最中、一万円札がとうとう新しくなるとか。そしてそれに合わせて諭吉先生が引退なさるとか。
グッバイ諭吉、フォーエバー諭吉。もう「天は人の上に人を作らず」なんて言っちゃだめだぞ!
ということで今回は新しく渋沢栄一という男が一万円札の顔になるわけですが、この方がどんな人なのか、経歴や名言などをまとめて参りましょう!
渋沢栄一が新紙幣に選ばれた理由
こちらについては麻生太郎財務相が「日本の資本主義の父」と説明。
日本の資本主義経済の発展に大きく貢献した渋沢栄一という人間を、日本の貨幣における最高額として選んだのは不思議でもないかもしれません!
新紙幣1万円札の渋沢栄一の経歴
そんな渋沢栄一の経歴はこちら。
生い立ち
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に生まれ、幼名は栄二郎という名前でした。
後に栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗ったとのことです。
尊攘派志士から、徳川慶喜の家臣・幕臣へ
幼いころより学問を学び、一方で剣術も学ぶ文武両道な一面を持った渋沢栄一は、江戸へと出ると後に「徳川300年の大儒」と呼ばれた海保漁村の下で、学びを深めました。
それと同時に北辰一刀流の千葉栄次郎の道場で剣術を学び次第に当時の時流でもあった尊王攘夷運動に傾倒していきます。
ただ、ちょうど渋沢が活躍をしようとした頃は1863年にあった八月十八日の政変後のこと。
すでに京都での志士活動も下火となっていたために、一橋慶喜の家臣として働くことに。のちの征夷大将軍となる徳川慶喜と大政奉還に至るまで家臣として活躍したとのことでした。
大政奉還直前には徳川幕府から帰国を命ぜられて帰国。1869年に徳川慶喜の家臣としての役目を終え、10月に大蔵省に入省します。
大蔵省入省から実業家まで
大蔵省の入省後は後の日本銀行の原型ともなる「国立銀行条例」の策定や度量衡の制定を行うことで、日本の貨幣経済の発展に大きく貢献いたしました。
しかし、わずか6年で大久保利通らと予算編成でもめて退官。
後に第一国立銀行と呼ばれる銀行の頭取に就任すると、多種多様な企業の設立に多くかかわり1931年11月11日に死去するまで精力的に活動されました。
新紙幣1万円札の渋沢栄一の功績
麻生太郎財務相が述べていた「日本の資本主義の父」という意味は、何もそれだけではありません。
地方銀行の設立にも精力的に動き、また銀行設立だけでなく多彩な業種の設立に携わったのです。
後にこの持株会社を「渋沢財閥」と呼ばれるほど大きなものにしましたが、経営に関しては口を出さない主義であったと言われています。
そして、多種多様な企業の設立に関わった渋沢の企業は列挙すればどれかは一つ聞いたことのある企業ばかりなのです。
渋沢栄一が携わったと言われる企業
- みずほ銀行
- 澁澤倉庫
- 王子ホールディングス
- 王子製紙
- IHI
- いすゞ自動車
- 太平洋セメント
- 清水建設
- 東洋紡
- 川崎重工業
- 第一三共
- デンカ(旧電気化学工業)
- 古河機械金属(旧足尾銅山)
- 損保ジャパン日本興亜
- 朝日生命保険
- キリンホールディングス
他にも多々ございますが、金融業界から物流、製紙に重工業。
多彩なジャンルに分かれた企業を支援した文字通り「資本主義の父」と呼んでも差し支えない方でしょう!
新紙幣1万円札の渋沢栄一の名言
そんな渋沢栄一の名言はこちら。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
仕事の中ではやはり妥協したりその人の思惑が見え隠れすることが多々あります。
その中でビジネスの本質を説いた名言の一つですね。
深い……。
新紙幣1万円札の渋沢栄一の功績・経歴まとめ
いかがでしょうか?
今回は渋沢栄一についてまとめました。
大河ドラマや朝ドラにも出たことがある渋沢栄一。
渋沢栄一といえば、
『あさが来た』での三宅裕司さん pic.twitter.com/5BDhw5UBZm— 志ぃ (@beezet_bz178_0) April 8, 2019
今後はもしかしますと、大河ドラマの主人公なんてこともあるかもしれませんね!
それではまとめて参りましょう!
- 日本の資本主義の父!
- かつては幕臣で大蔵省の官僚!
- 日本の貨幣経済を作り上げた一人!
こちらのようになりました。
一方で篤志家としても有名で、多くの財閥に爵位が与えられながらも渋沢栄一にはそれらよりも格上の階位を与えられたとか。
そういう意味でもふさわしい方だったのかもしれませんね!